ピカソのタッチは鮮やか!最初から最後まで人間にこだわった描画

ピカソが老年期に目指した””子どもが描く絵””の様な自由な表現形態はピカソ独特のタッチで実現させていましたが、幼年期に描いていたのは、闘牛やアカンサスの葉などで、しかも描き方のベースはリアルな写実表現でした。子どもが興味を持ちそうも無いものをじっくり丹念に、鋭い観察眼を持ってして、真のアカデミズムの継承者として、父親からは絶大な期待を寄せられていましたし、ピカソの才能に喜びを感じながらも、自身も画家の端くれとして、名を残すつもりでいましたが、逆にピカソの才能に感化されてしまい、絵が描けなくなったと言われています。

1895年の「裸足の少女」は、「新古典主義時代」の輪郭の原型と言わしめるほどに、穏やかで素朴な少女の表情を見事にとらえ、ベラスケスの白の影響とピカソ独特の柔らかいベージュが見事なハーモニーを奏でています。要するにピカソは、この当時からすでに人間というものに、異様な執着心を持ち始めていた事が分かります。そして緻密な石膏のデッサンや古典絵画の模写から青年期の大作「初聖体拝領」へと導かれます。ピカソの修行時代の一連の訓練は、人間絵画の形成であり、多くの絵に父親をモデルにして、登場させているところも、ピカソならではのユーモア精神の表れと言えます。

それでも当時ピカソが描いていた絵は10号前後のモノが多く、非常に様子を伺いながら慎重に独自の表現の方向性を探っていた事が分かります。そして現在バルセロナ美術館に所蔵されている1897年の「科学と慈愛」は、ピカソの独自的発想と写実性が一つのビジョンとして、完成を遂げ、青年期の人物描写は究極の位置に配して、幕を閉じます。パリで活躍していたロートレックのポップな表現を取り込んだ「抱擁」は、現実的でありながらも、恋人同士の愛の形を、惜しげもなく画面に浮き立たせています。

パリ時代の幕開けとなった、アールヌーボー的な写実表現は、非常に流行の兆しを感じ取る事のできる作品群で、ピカソが想像していた以上にアバンギャルドな人種がひしめき合っていたため、それらの影響が色濃く絵画に反映され、パステルを用いた瞬間的なフォーカスをそのまま絵画にしているところが、ためらいと湧き出る創作意欲の現れであるとも言えます。ではピカソ絵画の前触れのような経験は、その後にどの様な影響を与えていったのでしょうか。興味深いのが、1933年の「闘牛、闘牛士の死」と言う作品の写実形態とポップ要素が、見事に組み合わさり、ピカソのスペイン時代の記憶のぶり返しのようなものが起こっていることです。

ピカソは19歳でパリに拠点を移して以来、生まれ故郷マラガでの思い出を胸に秘めつつ、パリでの出会いをそのまま絵画にしていましたが、マリー・テレーズやオルガ・コクローヴァなどの身近な女性の肖像画も平行して描きました。晩年は最後の妻ジャクリーヌとの幸せな生活を芸術の糧として、エネルギーを養いながら、自己の人物描写を完全なものとしたのです。