ヒトラーにも奪う事はできなかった!ピカソの強固な制作意欲

「ゲルニカ」に次ぐ大作「化粧する女たち」や「アンティーブの夜釣り」は、平和を象徴するような暖色で描かれており、非常に見るものを安心させる作品で、その直後、ニューヨーク近代美術館で個展を開催するなど、ピカソは、非常に充実した日々を送っていました。しかしピカソがニューヨークからフランスへ帰国する時には、すでにナチスによってパリは陥落しており、3万人のナチス兵がパリ中に溢れる中、当惑しつつもピカソはパリの自宅に戻りました。

しかしピカソの実験絵画は、この第二次世界大戦の最中にあって、より強固なものへとなり、ピカソのビジョンの輪郭がより具現化されていきました。パリ陥落の前年1939年の「本を読みながら横たわる女」、「ひじをつくマリー・テレーズ」、「マグリット・ヴァルターの肖像」、「スペイン貴族に扮したハイメ・サベルテスの肖像」など、鮮やかではっきりとした目鼻立ちの顔を画面いっぱいに描いて、存在感を際立たせています。

この頃は、愛人マリー・テレーズやドラ・マールの肖像画を多数描いており、「キュビズム」から派生した応用絵画を熱心に探求していました。そして名画「髪をすく女」や「泣く女」が生まれるのです。パリ陥落と言っても、死人の出ない完全支配下において、多くのパリジェンヌたちは、ナチス兵に恋をし、皮肉にも終戦後断髪を命じられることになります。そんな中で、21世紀の今でも活躍しているフランスの画家、フランソワーズ・ジローは、当時21歳の美術学校に通う少女で、ピカソと出会い愛人になります。よって、ピカソは戦時中にも関わらず美しい女性たちに囲まれ、より一層絵画芸術だけに限らず、オブジェの制作にも没頭していきます。

そして終戦後、フランソワーズは、ピカソから独自のスタイルを吸収し、女流画家としての道を歩み始めます。ピカソは自己の技術を惜しみなくマスコミにも公開し、ヴァロリスで挑んだ巨大壁画「戦争」と「平和」を1952年に完成させています。ピカソは、戦時中に溜まったフラストレーションをこれらの壁画にぶつけるだけでなく、「ゲルニカ」とは違った明るい色彩を用いる手法で悪の形、正義の形を白い鳥を盛り込みながら、抽象的に表現しています。

戦争で傷ついた母国スペインに対するアンチテーゼとして製作した「ゲルニカ」は、偉大なる財産として、ピカソの芸術的探究心に火をつけ、皮肉にもヒトラーの政治支配はそこにガソリンを注ぎ込むような形になりました。脅威には、芸術を持って立ち向かうという構造は、平和社会においても確立され、色彩の配分とバランス感覚、4次元空間の確立と、着実にピカソの世界は、科学的に発展しました。

よって異次元性の探求とは、芸術の上澄みの構造をより複雑にするものですが、実際に表現されたピカソの絵画は、青年期に学んだシンプルなアカデミズムの構図と変わりはなく、魅力は増していきました。そして終戦から一年後平和の象徴とも呼べる「生の喜び」が完成しました。