友人が自殺!ピカソの最も悲しい時代が歴史の始まりだった

1900年、ピカソが19歳の時に初めて訪れたパリは、美しい花で彩られた色彩溢れる街でした。その4年後、ピカソはカルロス・カサヘマスを含む数人の同じ志を持った友人と共にパリへの移住を決意しました。そしてモンマルトルのラヴィニャン通りにある洗濯船と呼ばれる家賃の安い長屋に住み、芸術活動を始めました。しかし友人カサヘマスは、恋人とのいさかいから、拳銃自殺を図ります。ピカソはこの出来事が精神的な落ち込みに発展し、作品も青と黒をモチーフにした暗い印象へと変化しました。

しかしピカソはこの事件以前から、青を基調とした作品を多く発表しており、「床にうずくまる母と子」がいい例です。”「青の時代」の始まり=カサヘマスの死”とされていますが、逆にピカソの作品の傾向は必然的に青で彩られた作品群へ変化したという見方ができるのです。そもそもパリという街は明るく華やかという印象が強い反面、娼婦がはびこり、窃盗などの事件が頻繁に起こる恐ろしいところでもあったのです。

ピカソは、パリ到着直後に「花瓶の前の母と子」や「静物(デザート)」、「青の婦人」、「フレンチカンカン」など青、黄色、赤、緑をふんだんにあしらった作品を多く残しています。ただこれらの明るい要素は、パリと言う大都市に対する憧れや好奇心で必然的に筆が動いたと考えるのが自然で、率直に考えると気持ちが高ぶっていただけなのです。これはゴッホにも言えることで、オランダからパリに移住した直後の作品は非常にカラフルなものばかりでした。

そこで人間の心理を当てはめると、パリに着いた直後は興奮冷めやらない感はいなめませんが、しばらくそこに住んでみて知る、脅威だとか、不便さだとか、人の悪的な部分などの悲しみは、精神に大きな影を落とすことになります。すると画家に与える影響は少なからずとも色彩に出てくる事は間違いありません。

ただ「青の時代」の代表作「訪問」、「うずくまる不幸な女」、「老いたギター弾き」、「セレスティーナ」、「浜辺の貧しい人々」、「盲人の食事」など孤独と人々の群像劇がしなやかなプルシャンブルーで染められており、アカデミズム時代に蓄えた陰影技法が、巧みに生かされ、大胆でシンプルな画面構成は、人々を魅了させます。そして「青の時代」の集大成的作品「人生」が完成するわけですが、この絵の男性のモデルはカサヘマスであることから、評論家はここでも、カサヘマスの死の影響を強く訴えるのです。

そしてピカソの絵には徐々に色彩が彩られ始め、安心、平安、喜び、笑顔、そして幸せのピンク色がピカソの中に花咲くわけです。ただカサヘマスはピカソにとって、かけがえの無い友人であったことに代わりはなく、一言でカサヘマスの死がピカソの策略に利用されたとは言えませんが、ピカソはカサヘマスの死に顔を描いていることから、悲しみに暮れた事に変わりはありません。

そして現在、心をえぐった様な、スリリングに満ちた「青の時代」の作品群は、世界中の美術館に保存されている貴重な品々となっています。