0歳の画家誕生!ピカソは絵を習ったのではなく知っていた

ピカソは0歳にして絵画に対するモチベーションのようなものを魂に秘めていて、青年期に父親から絵画の教育を受ける前から、画面構成がしっかりした絵を作り出す準備は整っていたのです。そして初めて発した言葉は「ピス」(=鉛筆)という逸話もさながら、ピカソの芸術的な色彩感覚、バランス、構成に至るまで見事に成長を遂げていったのです。そこにあるのは、子どもが描く様な形も大きさもばらばらの不器用な絵ではなく、人物の姿を的確に表現した絵を描いていて、それこそ天性の賜物と言えるのです。しかしピカソは大人になってから、幼少時代には描けなかった、子どもの感性というものを普遍的要素ととらえていたので、子どもの頃には大人の絵を、大人になってからは子どもの絵を目指しました。

とくにピカソが晩年子どもの感覚を実際に習得しようとしたところ、これまでにない程の制作意欲がピカソの体を支配して、それはある種の情熱の塊が爆発するかのごとく、絵画作品の量産が始まりました。当時の美術評論家の意見は賛否両論で、これまでにないインパクト!ととらえる人もいれば、便所の落書き!と評する人もいて、ピカソがそれらの意見に耳を傾けたか定かではありませんが、ピカソの絵画に対する情熱は、80歳を超えても留まるところがなく、油絵以外にも彫刻から版画まで多種多様の作品群を残していきました。

例えば新古典主義時代の作品の中には、F6号ほどの小さな油絵もあり、例え作品事態は大きくなくても、強烈なインパクトとダイナミックな構成により、見るものを釘付けにする「力」を秘めていました。その力は、まさに0歳から蓄えられて来た絵画に対する熱い情熱とアンダルシアの気候や風土がもたらした、ある種のプライドが全ての芸術作品に反映されていると言っても過言ではありません。

ピカソが16歳の時に入学した、サン・フェルナンド美術アカデミーでアカデミズムに区切りをつけたわけですが、これはピカソが幼少の頃から抱いていた、神秘の扉を開いた瞬間でもありました。古典主義的な発想の古さを捨てて、ピカソの表現力はもはやスペインではなく、パリの華々しくも残酷な街以外に、マッチするところはなかったのです。ピカソは8歳で闘牛の絵「ピカドール」を描いてから、放浪者や家族に至るまで様々な群像を描き、自己の可能性を試してきましたが、結局は自由主義に舵を切ったと言うわけです。

ただいくら青年時代にアカデミズムに傾倒していた父親の影響を受けても、シンプルで多様な要素を秘めた絵画作品の基礎作りは、すでに行われていて、それが16歳の時に描いた「科学と慈愛」に現れていると言えます。そしてピカソは晩年にこそ、緑や黄色を頻繁に使っていますが、生涯を通してのカラーは「青」であったと言えます。ベラスケスから受け継いだ青年時代の「白」がパリで青の群像が浸透して、独自の絵画が生まれたと言うわけです。

ただ極端な言い方をすれば、ピカソは誰からも絵を構成するための発想の転換というものは、習ってきておらず、生まれながらに知っていたという見方もできます。