現代美術の色を塗り替えた!ピカソはキュビズムだけじゃない

ピカソほど絵画形式を変化させた画家はいません。古典的アカデミズムを継承しながら、ポップアートに傾倒し、幾何学的側面からの造形美術の頂点に上り詰めた後も、分析術を試みて、キュビズムなる定義まで作りました。キュビズムは物体の球体部分を直角にしていくことで、多面体美術ともいうべき、脅威のインパクトを生み出しただけでなく、人物画以外にも静止画、風景画とその領域は広まっていきました。

しかし芸術的変化の過程には必ず一つのきっかけが存在します。それはまさしくピカソの古典主義脱却への、野望と言うべき試みでもあったのです。そしてキュビズムの方式で描かれた風景画は、現代美術の基底とも言うべき、今となっては古典芸術へと成長したのです。要するに、風景画を写実的に描くのではなく、葉や木、土などの質感は簡素なものにして、全体をべた塗りで仕上げて、影だけを後から付け足していく手法です。

それが1908年の連作として発表された「風景」、「庭の中の家」、「庭の中の小さな家」、「緑の鉢とトマト」です。これらはキュビズムの原型として描かれた実験的作品ではありますが、多面体の方式が随所に見られることから、ピカソの新たな物語は始まっていると考えられます。その後も肖像画や裸婦像を経て、パラレルワールドのごとく10角形、20角形の「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」が1910年に完成します。気がつけば「アヴィニョンの娘」からの脱却を図り、完全なる多面芸術・実験描写が本格化していました。

そしてパリでも名だたる地位を確立していったのです。キュビズムは、ピカソやジョルジュ・ブラックが発明した超原理的手法と言ってもいいほどの、応用範囲が非常に広く、様々なタイプの視点角度とそのバランスで満ち、色のつけ方も千差万別で、非常に微細な絵画へと変貌していきました。1911年、モンマルトを離れモンパルナスへ移り住んだピカソですが、キュビズムによって、独自路線をさらに強固なものへと発展させて、平面芸術だけに留まらず、ボール紙や木のオブジェの製作にも守備範囲を広げていきました。

恋人フェルナンド・オリビエはピカソの元を去っていき、エヴァと呼ばれたマイセル・アンベールと知り合った頃から、キュビズムの多角形描写は、徐々に丸みを帯びた絵画へと変化していきます。実はこの時期の変化こそがピカソの真骨頂と言うべき時期であると言えます。この後のピカソのスタイルがここで、ほぼ確立していたからです。ようするに”ピカソ=キュビズム”ではなく、ピカソはキュビズムを踏み台にして、芸術世界を広げていったと言えるのです。キュビズムは、誰が見ても圧倒されるジャンルの抽象芸術ではありますが、誰からも愛されるタイプの様式ではありません。

しかしそこから派生したフォルムの応用は総合芸術家ピカソの発展に大きく貢献することとなりました。ですから30歳から40歳にかけて、より挑戦的な絵画制作へ乗り出すこととなったのです。