ピカソはキュビズムを踏み台にして、芸術世界を広げていったと言えますが、キュビズムは誰が見ても圧倒されるジャンルの抽象芸術である反面、誰からも愛されるタイプの様式ではなかったため、ピカソは更なる応用を試みて絵画形式を発展させていきました。

「コートを着た自画像」から6年後に製作された「アヴィニョンの娘たち」は、美しくない女性の集合体であり、顔が奇形して、3次元に生きる我々の想像力とピカソのビジョンが合致しないところがあります。しかしそれらは、ピカソの幾何学的発想の結晶であったと言えます。

1900年、ピカソが19歳の時に初めて訪れたパリは、美しい花で彩られた色彩溢れる街でした。その4年後、ピカソはパリへ移住しましたが、友人のカサヘマスは、恋人とのいさかいから、拳銃自殺を図ります。この出来事があって後、ピカソの作品は暗い印象へと変化しました。

23歳のピカソは貧くはありましたが、常に恋人フェルナンド・オリビエがいて、ピカソを懇親的に支えつづけました。そしてピカソの絵画作品は、グレードが増していき、底知れぬエネルギーに翻弄されながらも、フェルナンドの優しい顔が何枚もキャンパスに投影されていったのです。