ピカソはパリという街に新しい息吹を感じ、全力で父親の教育方針を否定して、何度もパリへ足を運ぶことになります。ピカソの絵画というのは、喜怒哀楽がビッグバンを起こすがごとく、自在変形して行くため、パリに住み始めた時のピカソの絵画はポップアートそのものでした。

「科学と慈愛」が1897年に完成するわけですが、これも傑作の一つと評されています。ピカソの評価は、「アヴィニョンの娘たち」以降急激に高まっていくわけですが、「科学と慈愛」という作品の印象は、ピカソのその後の方向性の転換によってかき消された感はやむを得ません。

まずピカソが手本にしたのがディエゴ・ベラスケスでした。17世紀の画家でベラスケスは国王フェリペ四世を中心に、宮廷内の人々を数多く描きました。描写の特徴として、黒をベースにした背景と赤を中心にした衣装を身にまとった人物をリアルに表現するという、斬新なものでした。

ピカソは0歳にして絵画に対するモチベーションのようなものを魂に秘めていて、青年期に父親から絵画の教育を受ける前から、画面構成がしっかりした絵を作り出す準備は整っていたのです。幼少期のうちに芸術的な色彩感覚、バランス、構成に至るまで見事に完成されていました。