父親の教育を前面否定でついに暴走!不良画家ピカソの船出

ピカソはパリという街に新しい息吹を感じ、自分の可能性を賭けるべく、全力で父親の教育方針を否定して、暴走機関車のごとく、何度もパリへ足を運ぶことになります。ではもし、父ホセの教育を全面的に受け入れ、アカデミズムの画家として歩んでいたらどうなっていたでしょう。その延長線上には、レオナルド・ダ・ヴィンチの面影がみえかくれしている、いわゆる「ライン」を踏んでいた事は間違いありません。つまり現代美術の扉は、ピカソでなくとも、マティスでもブラックでも、どちらにせよピカソ以外の誰かがこじ開けていたことでしょう。しかしピカソは、同じ趣旨を志に掲げた同人類とも言うべき仲間を伴って、23歳の時にパリへ移住しました。

ピカソの絵画というのは、精神状態に翻弄され、喜怒哀楽がビッグバンを起こすがごとく、円形は四角に、青は赤に、人間は木材に自在変形して行くため、パリに住み始めた時のピカソの絵画はポップアートそのものでした。要するこれから何かが始まるという予感を超えた確信が喜びに繋がったと見て、間違いありません。しかし平和というのは、ピカソの心を落ち着かせるロキソニン(鎮痛剤)のようなものですが、ピカソのハートは無味乾燥としてきて、発想力、想像力、制作意欲は、まるで倦怠期の夫婦のように、止まった時間の中でしか存在しないため、イメージングの爆発は起こりません。

しかしピカソの友人のカルロス・カサヘマスの自殺によって、ピカソの心の暗闇が一気にピカソの芸術をどす黒い青で覆ったわけです。これが「青の時代」ですが、まさに薄暗い中にたたずむ男と女の表情はどこかうつろ気で、男のモデルはカサヘマスで、絵の題名は「人生」とされました。青の時代の「人生」という作品は、ピカソの最高傑作に選ぶ人もいて、当時も非常に反響を呼んだ絵画であったため、ピカソの名はみるみる広がっていきました。

評論家の中には、「青の時代」を奇跡の時代とする人もいて、薔薇色の時代以降のピカソの変貌を意識すると、自ずとそのような考えにいたる由縁は見逃せません。しかしピカソは強かな男です。自分の人生のマイナス要素を見事に、ダイレクトな表現技法によって、一つの作品群に仕上げたバイタリティーは、故郷のマラガという土地柄が影響しているのか、パリの新しい風土がピカソに絵を描かせるのかは、不明ですが、湧き上がってくる芸術への探究心が、ピカソの左手に宿ったと言う事実は変えようがありません。

ピカソは17歳の時点で、古典主義を自己の中で粉砕し、自分なりの表現技法を確立していきましたが、それでもピカソにとっての変化と言うのは、まだ氷山の一角に過ぎなかった訳です。パリで出会ったフェルナンド・オリビエの優しい人柄に触れ、尚且つ「アヴィニョンの娘たち」のような難解なパズルのような絵画を生み出し、注目と人気は正比例しながら、人生の軌道を並行的なバランスで突進とは言わないまでも、全力で歩んだその軌跡は見逃すことができません。