色彩のマジシャン!ピカソのカラーを変えたのは出会いと別れ

1901年製作の「ペドロ・マニャックの肖像」は、ピカソが20歳の頃の作品ですが、パリ到着直後とあって、シンプルではありますが、非常に革新的な構図の肖像画です。一見ロートレックのポスターの様に、赤と黄色の配置が絶妙なバランスを持っていて、パリ時代を象徴するかのような華々しくも力強い作品に仕上がっています。また同年製作の「アブサンを飲む女」は、ゴッホのアルル時代の「読書するジヌー婦人」の構図に影響を受けている節もあるところから、ピカソはパリで花開いたことも事実ですが、かなり実験的な試みを行っていることから、力強いタッチを持ってはいても、心の隙間には孤独と不安が垣間見れます。

そして友人カサヘマスの自殺のショックから自己の絵画は変貌し、絵画にぶつけた自己の脅威に驚いたのは、周囲の人間ではなくピカソ自信だった可能性もあります。そのような混乱の中で、安心や安らぎを与える存在こそ「女性」であったのです。ピカソが23歳の時フェルナンド・オリビエと出会ったわけですが、この頃のピカソはまだ駆け出し中の画家だったので、絵画の中に女性の存在を浮かび上がらせるような、強かな欲望は持っていませんでした。

しかしピカソが絵画制作に対して、独自のカラーを打ち出した「キュビズム」以降に出会った最初の女性、オルガ・コクローヴァは悪い言い方をすれば、ピカソの絵画の道具として、ピカソの頭の中で構築されてしまった感は否めませんが、当時のピカソの絵画は「新古典主義時代」と呼ばれ」、模倣的な人物画の取り組みに余念が無かったのです。ただ「キュビズム」とは正反対の生身の人間を優しいタッチで描いていることから、息子パウロの誕生と共に、ピカソの心が平安で満たされていたことは、間違いありません。

さらに10年後、ピカソは、キュビズムの変形に次ぐ変形を裏返したかのような、美しい曲線の裸婦像「夢」、「赤い椅子に座る裸婦」を完成させました。このモデルになったのが、若干17歳のマリー・テレーズ・ワルテルでしたが、ピカソに見初められ、マイアという女の子を出産しました。ところが同時期にピカソは「座る水浴の女」というこれまた革新的な裸婦像を描いていて、フォルムは人間で肌の質感は全て木材という、問題提起したくなるような、表現方法です。

このようにピカソは女性を踏み台にして、自己の芸術作品の質を自在に操り、極シンプルな造形美の創作に余念がありませんでした。そしてフォルムの極限がマイナス方向に進んでいき、「キュビズム」の最終進化系とも言うべき、2つの「赤い椅子に座る女」が完成しました。これは完全に人の姿の造型ではなく、いわゆるオブジェを絵画にしたような逆説的な絵画です。しかし脅威的な支配には満ちておらず、むしろ温かみのある縦1m30cm×横97cmの大作となりました。

晩年の妻ジャクリーヌの肖像画や裸婦像も多数生み出されましたが、ピカソが91歳でこの世を去った後、ジャクリーヌは自殺しています。このようにピカソは女性に秘めたあらゆる感情を油絵やオブジェで表現しつつも、被写体となった愛人や妻たちは、全エネルギーをピカソのために注いだとも言えます。