ピカソが残した功績とその過程にあった出来事

ピカソが世界一の画家であるという見方は、若干偏見があります。

なぜなら、芸術には定義が定まらない分野なので、すぐれている芸術家に順位をつけることはできないからです。

だからピカソは世界一絵を愛してた、と言うとしっくりきます。

生まれ持って芸術を愛していたピカソは、青年期に古典主義の道をひた走りました。

しかしピカソの頭の中には、凡人にはない何かがうごめいており、、赤や青と言った、美しいカラーや性に対するモヤモヤした気持ちをダイレクトに発展させた抽象技法やオブジェにまでピカソの世界は蔓延していったのです。

ピカソは自分の身の周りの人々を描写していった結果、ピカソの作品はピカソの人生そのものになりました。要するに骨身を削り続けて、気がつくと、女性を丸太で表現するようになっていたのです。

またピカソの絵画は、造形美ではなく、変形美という見方もあって、美しい女性もピカソにかかれば、人間以外の簡素な物体に化けさせられるという皮肉な現実があったのです。

元々スペイン人だったピカソが本格的に芸術活動をスタートさせたのは、パリでしたが、パリと言う色気のある街はピカソの絵画に多大な影響を与えただけでなく、ピカソ独自の感覚を研ぎ澄ますのには、適度な刺激があって、常にテンションが沸き立っていた事は間違いありません。

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ピカソのテーマは人間ではあるがその中には常に女性がいた

ピカソが古典主義、いわゆるアカデミズムに傾倒していた頃に描いた母親の横顔は、非常に優しい顔立ちをしていて、リアルではありますが、安心できる一枚でした。

例えば戦前に付き合っていたドラ・マールの肖像画というのは、非常に刺々しく、戦慄に満ちている表情の絵が多く、これはひとえにドラ・マールの性格を現しているものと言えます。

初期の「科学と慈愛」でも絵の中心は、息を引き取った女性ですし、新古典主義時代の絵画も女性がモチーフになっているものが、ほとんどです。

ピカソは70歳を超えても若い女性を愛し、絵画制作のエネルギーにしています。ピカソの人生は女性を支配しつつ、逆に女性に支配されていたと言えます。

穏やかな女性の絵を描くときは愛に満ち溢れていて、逆に暗い雰囲気の絵は、倦怠期のような空しい空間が広がっています。

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結局、最初の恋人から最後の妻に至るまでピカソは70年間女性を題材に、絵画制作に打ち込みました。これらの作品一つ一つがピカソの愛の結晶と言えます。戦争などの政治的呪縛から解放された時も、ピカソの横には誰かがいて、色鮮やかな色彩感覚を保持する事ができていました。

ピカソの脳が指令する様々なビジョンの構築は、女性なしにはあり得ませんでした。

1930年代の安定的な色彩芸術に次元一つ分の企てをプラスすることによって、導き出された新手法、「ジャクリーヌの肖像画」から香る素直な愛の形体は普遍的であり、安心感と緩やかなリズムの調和から老人ピカソの行き着いた先が真の幸せであったことに間違いはありません。

ピカソはパリに拠点を移して以来、様々な出会いをそのまま絵画にしていましたが、マリー・テレーズやオルガ・コクローヴァなどの身近な女性の肖像画も平行して描きました。晩年は最後の妻ジャクリーヌとの幸せな生活を芸術の糧として、自己の人物描写を完全ものとしました。

「泣く女」はある種、写実性を帯びた異次元の女と言うこともできます。そして対極的な絵画はこの世に一つしかありません。レオナルド・ダヴィンチの「モナリザ」です。ピカソは死後、より一層人気が高まり、晩年悪い評価を下していたマスコミもこぞって、賛美し始めました。

21世紀の最先端芸術は、確かに多ジャンル化して、その発展が止まないので、国内各地で行われるビエンナーレでは、異常な盛り上がりを見せています。しかし目を閉じればそこには、必ずピカソの面影が存在しており、未だにピカソの志向が根強く生きていると言えます。